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日本人よ。自虐化のマスコミに惑わされず、誇りと自信を持とう!明治時代に外国人記者(英国)が驚嘆の目で見た日本人の神技!元NHK記者が発した『頂門の一針』

当メルマガ先週号で下記のように述べた。

『・・・N.H.K.(ネット界では日本反日協会、捏造反日協会と揶揄されている)の偏向放送、NHKスペシャル「アジアの“一等国”」の反日偏向番組に対し、日本国民の怒り爆発、日本の裁判史上最大の8300人による集団訴訟、27人の弁護士による大弁護団結成。

上記のように、世の中の大変化の流れ(マスコミの情報独占⇒知的なネット国民の情報フラット化)の象徴的出来事が起こった。知的なネット国民が、情報を独占してきたマスコミの閉塞空間を破った瞬間である。知的な国民は、良質の情報や知識を、マスコミからだけでなく、ネットや書籍から得ていることをマスコミはまだ知らないのだろうか。

こんなゆがんだ偏向反日番組を流されては視聴料を払う国民はたまったものではない。
しかし、これらは一部の上層部がやっていることで、NHKやマスコミの中には、とても良心的な人も沢山いて、内部でも動揺が広がっているようだ。彼らの公平な判断、良心的思考と行動を信じ、期待したい。・・・』

このように、NHKにもきっと良心的な人達がいるに違いないと私は述べた。そして、その通りになった。その典型が、NHKの大先輩、元NHK政治部記者が発した、「頂門の一針」(人の急所をついて強く戒めること)、『NHKはこれをよく読め。』の一言、一喝であった。

それは、NHKの大先輩、元NHK政治部記者、渡部 亮次郎先生が、発行している下記メルマガで、述べられた言葉だった。

メルマガ渡部 亮次郎先生主筆「頂門の一針」 1593号 平成21(2009)年7月2日(木)
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そこで、私は、このメルマガの主筆、NHKの大先輩、元NHK政治部記者、渡部 亮次郎先生に次のようなメールを送った。

『渡部 亮次郎先生主筆の「頂門の一針」、長い間、いつも楽しく読ませて頂いております。元NHK記者魂の渡部先生の熱い思いが随所に見受けられ読むたびに共感を覚え、感銘しております。まことにありがとうございます。

渡部先生はじめ優秀な著者群の有益な記事を見事にまとめてこれだけ素晴らしいメルマガを出されていることに日本人に大いなる勇気と自信と知恵を与えていることを感じ大いなる敬意を表したいと思います。

さて今回の「頂門の一針」 1593号平成21(2009)年7月2日(木)付けので紹介された『蛮地を近代化した日本人の神技:明治37年ロンドン・タイムス』は特に最近のNHKの日本人を貶める現状を見ますときにこの記事の内容の素晴らしさと渡部先生の「頂門の一針」=『>NHKはこれをよく読め。』の一言、一喝に渡部先生のNHKと国民を思う熱き記者魂を感じ、感動し大粒の涙がでました。

つきましては、私の発行する下記メルマガ「心と脳力upの健康医学」(読者数5,011名)
の読者にもぜひ読んで頂きたく、この記事を引用させていただけないでしょうか?ご回答頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。・・・)

そしたら、渡部先生よりすぐご返事を頂いた。『主宰者より:どうぞお使い下さい。』

そこで引用、転載のご許可を頂いたので、この貴重な文献を、そのままここに引用させていただく。 若干、長文であるが、明治37年にロンドン・タイムスの記者が書いた貴重な記事(海外から見た日本人の素晴らしさ)の和訳なので、省略せずに、ここに掲載させて頂いた。最近の日本の劣化したマスコミ(マスゴミ)が日本人を卑しめる記事を書く中で、英国人の記者が驚嘆した日本人のすばらしさを、とくとご覧あれ。

ちなみに、別の渡部先生、渡部昇一先生(上智大学名誉教授)は、最近、次のような著書を出している。
『日本人を賤しめる「日本嫌い」の日本人〜いま恐るべきはジパノフォビア』(徳間書店)
そして、その帯に、渡部昇一先生の頂門の一針、一喝、が書いてある。
『日本嫌いのジパノフォビアが国を滅ぼす。日本人なのに外人のようなふりをして日本の悪口を言うのはもうやめなさい』
〜田母神論文問題で噴出した”日本人による日本叩き”に通底する自らを賤しめる精神のありようを徹底批判。

私も数十年間、脳科学と心と精神を研究してきたものとして、言おう。いまの日本のマスコミは異常だ。あまりにも左傾化(−−)している。

私の論文でも再三述べているように、健全な精神、心とは、中性プラス(0+)の状態だ。つまり、健全な精神とは、中性中立(0)に、プラス面(自衛力、防衛力、免疫力、誇り、自立、自信)を持った形だ。
あまりにも左傾化(−−)し自虐化すれば、国は滅びると。そして、左傾化した目から見れば、当然、健全な精神、中性プラス(0+)の状態が、右側に見えるのである。そして、『戦争を美化している』などとレッテル貼りをする。違うのだ!我々のおじいちゃん、おばあちゃんたち、先輩の日本人の美しさを見ようとしているのだ。それが分からないのだろうか。渡部昇一先生の言うように、日本中が『日本嫌いのジパノフォビア』という病的状態に侵されているのだ。このままでは国は滅びていく。なんとかせねば。。。

そこで、健全な精神、中性プラス(0+)に戻っていただくためにも、先ほどの、渡部 亮次郎先生主筆の「頂門の一針」から貴重な文献をここに引用しよう。(若干、長文であるがせっかくの明治時代に外国人記者が書いた貴重な文献なので、省略せずにそのまま全文引用する。但し、世界中で列強による植民地政策が横行した明治時代に書かれた外国人記者の文章なので、その時代背景を考慮に入れて読んで欲しい)

・・・・・・・・・

★メルマガ「頂門の一針」 1593号 平成21(2009)年7月2日(木)、より抜粋
  〜蛮地を近代化した日本人の神技   明治37年ロンドン・タイムス

<1904{明治37}年9月24日、ロンドン駐在の日本台湾殖民経営のレポートを担当するタイムス誌の特派記者のレポート:極めて短い時間で、他の民族が出来なかった「険悪な野蛮地を近代化」に成功したのは、感嘆すべき神技! すべての殖民国家の典範である。

>NHKはこれをよく読め。(渡部 亮次郎先生の頂門の一針、一喝)

芸術作品の完成には3つの要素が必要である。生まれながらの才能、綿密な対応と経験である。 殖民の芸術にも例外は無い、ドイツ人はその殖民地経営の過程で、試みに失敗した。

綿密な対応にも拘らず、天性の才能或いは経験に乏しかったかを問わず、現実問題として最初の芸術作品は失敗するのが当;然である。ドイツ人がその殖民地経営に失敗した原因でもあろう。

多くの殖民国家は日本人の最初の殖民地経営の試みに興味を持っていた。特に荒涼、陰険な野蛮地(訳者註:清朝は台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んだ)を「最初の殖民地」とする日本の経営が多くの殖民国家が抱えている解決不能な諸問題を克服したのは、特筆に価する。

台湾はシナ及び諸外国の無法者が逃げ隠れる巣窟であった。環境は険悪で無法者の住民達は、度々来た外来侵略者に殖民の機会を与えなかった。スペインもオランダも台湾の殖民を試みたが、失敗し放棄した。

清朝(訳者註:漢民族というシナ人ではなく女真族、満州族の王朝、即、通称のシナ人が満州人に征服統一された王朝史実である)の入殖後も事実上この土地を放置し、その荒涼な無法者天国を放任状態に置いた。

フランス人も英国人も台湾への攻略は簡単であったとはいえ、この険悪な荒廃蛮地に長く留まる事は無かった。

野性の薫陶

日本人が日清戦争の終結で台湾島を所望した時、清朝は寧ろ喜んだであろう。清朝の宰相李鴻章(総理大臣)は其の所望を諷刺して、曰く「日本はやがて、台湾を割譲したのは、非常に悪い取り引き、と後悔するだろう」。

日本人が台湾島に上陸した時の台湾は、海岸沿岸は海賊の蟠踞でコントロールされ、内陸では険悪な無法住民に制御されているか、部分的には土匪武力集団の犯罪組織の制圧下にあった。 

彼らは海難の難破船又は航海中の船舶が島に接近の際に襲撃し殺害、略奪を繰り返した。清朝が台湾島を領有していた間に、米国を始め、諸外国の多くの紛糾クレームはこの海賊行為であった。清朝はこのトラブルメーカの台湾を日本に割譲することを喜んだであろう。

日本は台湾島を完全掌握するに約1年の時間を費やした、1896年3月31日にこの野蛮地を文明の管轄下に治めた。しかるに、この島に在任していた清朝の官吏と現存地位を失う恐れを持つ旧官吏達は島の無法者と組み、新しい統治者の日本に反抗抵抗した。ましてや、この島は元来常に不安定な動乱状態にあったので、日本軍隊の掃討作戦で1902年にやっと平定された。

法律執行下の寛容

日本統治下の数年の平和は、険悪な住民達の行動と精神面での顕著な変化を齎した。日本の統治に理解、賞賛又は恩恵を感ずるにいたった。即、日本の非凡な成功は住民の偏見を尊重し、温和な指導を行い、高圧的な威嚇を避け、台湾の住民を文明の道へと導いた。

例えば、日本人は台湾に古くから伝わる補助性質の「義警」組織を保留した。この組織は清朝統治下には民間人が土匪の略奪、火災、洪水や其他の天災地変にお互いに助け合い、身を守る仕組みであるが、この仕組を通して新しい日本の法律を住民に伝えた。

当時の法律は台湾に移住した日本人の為に有った。この新法律は文明に疎い住民達に即刻理解と受け容れられる物ではない。必要程度の手直しは、過度期には必要であり、住民の尊敬を勝ち得た。

アヘン患者の治療

台湾在住の日本人アヘン使用患者は、其の事情により、牢獄刑罰を受けるが、台湾人患者の刑罰は無かった。アヘンの使用量を逐次減少する原則下、最終的には使用を断ち切る意味で、日本政府はアヘン販売を「専売制度下」に置いた。アヘン使用が法の許可するものであるが、使用禁止の方向原則をも、併用した。

アヘン患者と認定された者に限りアヘンを購買できるが、厳しい監視下に置かれた。極少量の供給制度で販売店制度のライセンスが与えられ、警察の監視は現在の使用者と使用者が増加しないよう、厳しく取り締まった。

同時に道義上の教育と管理が併用された。医師は不断にアヘンの害を説明し、学校でも教師がアヘンの習慣性の邪悪が身体と人生そして道徳的な害を使用者に強制すると広く教育した。

当時の人口は約300万人で、1900年に169,064人のアヘン使用患者がいた。1902年3月末には152,044人いたが、これはすべて登録した使用ライセンスを持っている。

減少した17,020人は死亡かアヘンの使用を断ったものである。アヘン使用人数は懸命な政策下で、急速に減少している。やがては撲滅されるであろう。

1900年のアヘン輸入金額は3,392,602日本円が、1903年には1,121,455円に激減した。政府収入面で云えば、アヘンの制限政策は歓迎されない政策である。即、国の収入が減り、政策の推進に費用の支出が増加するためである。

日本政府は住民の宗教や風俗に干渉して感情を害する事無く、他の方面で、多くの改革改善を行い、事実上、日本の統治が良いと実証すよう努めた。

先ず、法を守る仕事人は最早土匪や強盗集団の暴威の威嚇を受け無くなった。公正な政府の統治下で、自由も有り、住民達の身体の健康にも、益する福祉建設も多く施された。

この島は流行性疾病に悩まされていたが、主因は不浄不潔な飲用水にあった。日本人は大幅な改善を行った。浄水の供給である。当時の台湾には深堀井戸又は自噴井戸は無かった。 新しい井戸の数字資料は無いが、台北地域人口の一割程の800個の井戸が掘られた。

学校制度の革新

教育は進歩の始まりである。日本人は素晴らしい学校制度を台湾に導入した。日本人の子供のための学校は60人の教師と2,000人の日本人学生がいた。台湾本島人のためには130校の小学校があり、521名の教師、そして、18,149人の本島人生徒がいた。これは、現地人を文明文化人へと導いた始まりでしかない。

日本人はこの程度の改革に満足せず、最善の教育を台湾に敷く事に尽力した。医学の専門学校と日本語普及のための日本国語学校又は、教師養成に師範学校を創り始めた。

台湾の医学専門学校は素晴らしい声誉をかち得た。遠東地区の唯一の、現代科学過程を学び、医学を実習する医学専門学校が台湾の住民に与えられた最初の学校である。校舎は台北に有り、師質充分な教授の指導下で、約150名の台湾の学生が医学の専門教育を受けている。

日本語国語学校は2つの目的がある。島民の日本語普及と日本人が現地の言葉を学ぶ事である。(訳者註:シナ人が1945年に台湾を占拠した後、北京語を強制し、すべての台湾現存言語の使用を禁止した。

これは、時効の無い、戦争犯罪行為である。台湾人はこの歴史を明記すべきである。また、台湾のホーロー語をローマ字で書いたキリスト教のバイブルを捜査燃やしたのは、侵略者の地方文化の破壊行為としての戦争犯罪である)。これ等の人材は島民の教師となり、また日本人の通訳として活動した。

個人の幸福とは暴力を受けない健康な身体の安全の他に、繁栄もまた重要である。日本人は其の新しい植民地の台湾人に繁栄を齎した、又、其の繁栄は確実に継続するだろう。

鉄道交通網の建設

日本人が台湾を入手した時点に鉄道と言えるものは無かったが、不思議なことに、使い物にならい短い鉄道は有った。建造がお粗末なうえ、管理運営はは話にも成らない。切符値段も貨物の運送料も毎日変動するうえ、運転ダイヤも無い。お都合次第で走行する実情であった。

日本人は台湾の実情と基本的な需要を見極めた後、各地鉄道建設の計画に着手した。先ずは、地図上で鉄道建設の全般計画を建てた。予算は日本円28,800,000円、英国ポンドに換算すると3,000,000ポンドであるが、当時は目玉が飛び出る程の膨大な金額である。

元来の古い鉄道を完全に立て直した。新しい建設は、新竹から高雄の鉄道は南北両端から、最大の努力で建設が始められた。1897年から1903年の間に95マイルの新鉄道が完成された。37箇所の駅と、210車両の貨物車と客車、そして、20両の機関車も整備された。

この間の鉄道の成長は目覚しく、乗客数は4倍増え、貨物の運搬量は10倍も増えた。このほかに、数ヶ月の短期間で、軽便鉄道が敷かれた。先ず、125マイル敷かれ、次に、52マイルが建設中という具合に敢行された。

郵政、電報と電話業務も引き続き成功を収めた。1896年から1902年の間に87箇所の郵便局が全島で、一斉に営業を始めた。1902年の業績は13,285,105件に上る手紙と葉書、114,779件の小包みを扱い、為替送金も336,207件あった。 

電報線も1896年の900マイルから1902年の2600マイルに急成長し、平行して、電話線も1902年の1350マイルで、通話記録も3,690,228通と近代化への躍進である。

日本人入殖時の台湾産業は時代遅れの不合理方式であった。科学的根拠とか成果の検討等に関心も無く、其の知識さえない。

台湾の住民たちは伝統的な大自然の恵まれた環境下での慣性に始終するのみで、付加価値の観念も能力もなかった。確かに、天の恵みで、1期作、2期作そして3期作の恩恵はあったが、その収穫は耕地面積と比例せず、また収益も充分では無い。

日本人は改良改革方法を導入し、米作の生産量は1896年から1902年には10%増加、お茶の生産量も5倍に増加、そのほかの農産物は、例えば、砂糖、芋、砂糖キビ、苧麻、黄麻、ウコン(生姜類台湾で姜黄とも呼ばれ、香料、染料の原料)も大幅な増産記録を記した。

巨大な森林も充分に利用活用されていない。島民たちは可也な資源浪費をしていた。例えば、クスノキから樟脳を抽出する過程で、樟脳油は廃物と看做されていた。日本人の改良案が実施された後の成果は、樟脳生産は1897年の1,534,596斤(台湾斤は600g)から、1903年の3,588,814斤、樟脳油は1897年の638,603斤から1903年の2,670,561斤と激増した。

鉱業も又しかりである。極めて原始的な「掘る」に過ぎず、不経済で、投入の動力に採算を無視した単なる「掘る」故に、成果は微弱であった。

日本人は辛抱強く、温和な態度と強い堅い信念で台湾人をよく教え導いた。幅広い分野で改革の成果を上げた。特に田畑の収穫は増加し、森林も科学方式が実施され、数百万株のクスノキも正しい場所に植えられ、鉱業も入殖の初期で大きな成果進歩を遂げている。

(ロンドン・タイムス 1904(明治37)年9月25日)日本語訳 陳辰光
(検索・提供:藤原徳太郎氏)


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